2014年1月22日水曜日

つれづれなるままに政治的話題:コメ 書かないでエエです (^^

こういう話は なかなか難しいものです ( ̄¸ ̄
「ディベート」が無いに等しい日本に於いては尚更の事

ほぼ二年前、ふとした会話から
ある生徒が「自分は原発が国中に広がれば良いと思っている」と言ったのです。
周りの生徒達は「えーーーー!?」と、殆ど叫ぶように声を発し
思わず彼を注視しました。

職場が職場なので、政治的な様相を呈する話に突っ込む事はしないし、
自分の見解をハッキリと発言した事も殆どありません。
その時には「うん、十人十色 という言葉があるよね。
だから、そういう考え方もあって当たり前だと思う。」と言いました。

ただ、そのあとに 下記の言葉を続けました。
「放射能・放射線の影響が 人間だけに限定されるのであれば、
好きなだけ原発を林立させ、利用すればいい。
それで今回のような事故が起きても、それは人間の『自己責任』であり
仕方のないことだ と 個人的には思う。」

「だけど、そうは言っても、やはり
キミ達や 若いお父さんお母さん、そして小さな子供達を
原発が原因で 苦しませたくはない。
『万が一』は 起こり得るから『万が一』なのであり
例え微々たる%であっても そのような可能性を 若い人達に遺したくはない。

『万が一』の事故を起こした場合、それを完全復旧させる技術が無い今現在、
未来ある若い人達、そして小さな人達に そんな重荷を背負わせていいのか
負の遺産を残していいのか?という疑問も ずっと持っている。」

「そして、何より、その『万が一』の場合には
影響を受けるのは人間だけではない という事。
人間だけが選択されて死んで行くならまだしも
人間以外の無数の生き物までが否応なしに巻き込まれる という事実、
これが 私にはどうしても容認できない事なのだ。」

あの大地震以来、ずっとずっと考え続けてきた事でしたから、つい。
もちろん、以上の事は「私の個人的な考えと思い だよ」と 前置きして。

それに加えて、最近 とあるサイトで
「万が一の場合でも放射線の心配の無い、現在の原発より小規模なものも開発可能」
という話を読み、そういう事を踏まえた上での様々な可能性もある 
とも思っています。

そして 本日。
また ふとした事から 一人の生徒が私に向かって言ったのです
「騒がれている『慰安婦』の件ですがね」と。

少し彼が話した後で 私は訊ねました「なぜ そんな事を知っているの?」

疑問に思ったから色々と調べた のだそうです。
よくもまあ 色々と調べたもんだなあと感心しながら 話をしていたところ
今度は別の生徒が
「なんだか東南アジアの人達は『日本が戦争した事を感謝している』そうですよ」と。
 私が この事を知ったのも、やはり最近なのですが

ASEAN諸国が なぜ そのような発言をしたのか を
具体的に説明しながら 脳みその別の部分で 考えてました

彼らは 16才
私は 59才
こんなに年齢差があるというのに
疑問を意識化したのは 同じ「現在」

「 私は・・・ずいぶんと長い事、ひたすら『 日本は悪い事をしたのだ 』と、
ただただ『 日本は悪者なんだ 』と思ってきたんだなあ 」
同時に、「 歴史なんて、見方が 少し変われば全く姿を変えるものなんだなあ 」 
と 考えてました。
無意識の「蓋」が、ここまでの年齢差を生んだんだなあ とも。

さて
先日 連れ合いに宣言したところです
「 K さん! 私は これから 右派 になるよ〜!(・∀・) 」

「どうして? どういうふうに?(´・ω・`)? 」と 訊ねられましたので

「自分が生まれ育った国、それを大事にしたい と思うから。
国歌の詩の意味も知り、国旗がどこから来たのかも知って、
やっぱり日本が好きだな〜 と思ったから。
自分の国を好きになれない なんて、私には悲しい事だから。
日本が好き と言って『右翼〜』って言われるなら それで良い 」と答えました。
「ふむ」と 連れ合い殿は言っただけでしたけど ( ^ω^) 

国を愛さない という事は = 家族を愛さない に通じるものがある
と 私は感じたのです。
私にとってこの事は 世間が あまりにも安直に定義づけるものとは
全く違う次元にある と思われるのです

ネトウヨ? 右派? 右翼? 左翼? 
なに それ?? ハッッッッッッッッ ┐( ̄▽ ̄`┌
という感じ (・∀・) 

生まれ育った あの土地が好き(私にとっては 東京のある一角)
今 私が生きている この地が好き
見上げる この空が好き

嵐が来ても 大雨が降っても
川が氾濫しても 地震が起きて 苦しく悲しい思いをしてもなお
この日本が 好き
この世界に生きる 命あるものが みんな みんな愛おしい

若い彼らは 彼らなりの行動でもって
自分の生きる この世界を見つめ続ける事でしょう。
彼らの生きる 彼らの時間

それを思うとなおさらに
私達 大人と言われている人間達の成すべき事も
如実に見えて来るように思われるのです。