2012年6月11日月曜日

ライヴ行 <1−3−祖母の葬儀 >

6月8日(金)
この日は 朝から目一杯の仕事。
以前、連れ合いから貰った黒の半袖シャツ(ダボダボ)を着て、
仕事先から直接ライヴに向かう予定でいた私は7時過ぎに、自転車で家を出る。

ライヴ3日目のこの日は 息子も仕事なのでバイク出勤。
仕事半休もらって ライヴに行く予定になっていたから
五反田からの帰途も、仕事先のある駅で下車し バイクで帰宅する事になる。

しかし...........駅で電車が来るのを待っている間に
どうしても モヤモヤが大きくなるのを 抑え切れなくなった。
「やっぱり 顔を見られなくてもいいから、おばあちゃんとお別れをしたい」。
ちょうど、黒いシャツを着ているし、ズボンだっていつもの黒。
靴は......濃いラクダ色 だけど  ( ̄ー ̄;

親族だけで行う葬儀だ って言ってたから これでいいよ。
そう思い、電車の中から妹に 葬儀の時間と場所を訊ねるメールを出した。

授業は2時間だけ行い、残りの一時間分を「自習」にして頂いて
学校の門を飛び出す。

結局、冷静でいるようで 泡食ってた ンだろうと思う。
「まぁ................間に合わなくても その時はその時
お見舞いに行って 顔は見たし ね.........」と踏ん切りつけて 電車に揺られる事2時間。
間に合ったからよかったけど、おかしなルートで電車に乗っちゃったのだった。

結構「混んでいた」のだ、焼き場が......。
それで 祖母の「葬儀」も 時間がずれ込んで、私は祖母と対面できたという次第。

< ↓あまりにみっともなかったので、授業が始まる前の30分間で縫い縮めたシャツ。 
「こ、こんな格好で ホント、済みません....」という私に 叔父(母の一番目妹の夫)が
「いいんだよいいんだよ大丈夫だよ」と (^∞^;) >


係員さんに案内して頂いて、母達のいる場所にたどり着いたんだが
私には 悲しい気持ち 泣きたい気持ちはなかった。
若い従妹達が ハンカチで顔を拭っているのを見ても 自分は涙は出なかった。
自分でも判らない気持ち
ああ.........もう いないんだ もう 会えないんだね .... だけ。

そんな私の姿に気が付き「ああ ねえちゃん!」と駆け寄ってきた妹と一言二言
言葉を交わしていたところに「ゆみ ちゃん?」と 手を伸ばしてきた人がいた。

叔母だった。

母の二番目の妹である叔母が 私に声をかけてきて、
「あ @%子ちゃん!」と返答した私の手を取り「ゆみちゃん....!」と言って
寄り添ってきた。


母の4人の妹弟、一番上の叔母だけ「$#オバちゃん」と呼び
その下の弟・妹・弟の3人のこと、私達姉妹弟は子供の頃から「ちゃん付け」で呼んでた。

そして、私に声をかけてきたこの叔母は、若い頃の私が 年中会いに行っていた人だった。
叔母が長女を生んだ時12才だった私は、もう この小さな従妹がかわいくてかわいくて。
実家の空気に耐えられなくなる度に泊まりに行っていた「母方の実家」の代わりに
今度は この叔母の家に行くようになったのも、小さな従妹が生まれてからだった。

遊びに行くたびに オシメ替えから ミルク飲ますの(母乳じゃない) よくやってた。
夏休みに、上の叔母の住んでいた名古屋に一緒に行ったときも同じように世話を焼き
私はいつも小さな従妹を抱いていた。

後で知ったんだが 叔母は身体が弱い人で、子供を産む事ができたのは めっけもん!
だったらしい。
だから、中学生くんだりに 自分の子供を多少也とも託す事もできたのかな.....? と 
今になって思うけど.....ずいぶん信用してくれてたんだな......とも しみじみ思う。

それに、こうして 色々と経験させてくれたおかげで
私は息子を生んだ時に 看護婦さんから「まあ!抱き方が とっても上手ね!!」と
そりゃあ褒められたんだヨ (^^

私は この叔母夫婦と従妹達(二人姉妹)の住む家に、大学時代まで訪れていた。
本当に、ほんっとうにお世話になった叔母夫婦。
私達を 心底 愛しんでくれた叔母。
その叔母が 私の手をギュッッッと握り締めながら、抱え込むように私の肩を抱いた。
その時、初めて 嗚咽が喉を鳴らしたんだ。


この、小さかった従妹(上の写真 一番左)は それなりの資格をとったらしく、
ホームに入居した祖母を、週に3回程訪れては世話をしていたらしい。
年は皆が重ねて行くものだから、従妹だってそれなりの年齢にはなってるけれど
今でもいつまでも可愛い子 なんだ。
性格が とっても優しい。

多くの従妹達と 色んな話をした。
 この叔母の娘達も だけど、一番上の叔母の娘達三姉妹も かわいいんだ。

小さな頃、毎年夏休みに、母方の実家に家族ぐるみで何日か泊まるんだけど、
彼女達の来訪に合わせて合流する私に、夜になると「お願い〜 ゆみちゃん!
怖い話 して! お願い〜〜〜!!」と 毎晩毎晩せがんでくる 困ったチャン達だった。

私は中学から高校時代
彼女達は小学校低学年から高学年時代......長女(上の写真 一番右)は 
アホみたいにこまっしゃくれてて
時々 えらく意地悪い事を私にしてきてはいたけども
それを 今では「自分の過去を消したい!」くらいに後悔しとるんだとか。
それでも、今でも やっぱり かわいいよ 

母以外、みんな ある宗教の信者なので そのせいもあるか?と思う
祖母の骨を「拾う」事なく あの白い容器に納め
そして その場で「解散」 ( ・◇・)?
こんなの初めてだったけど、でも、これはこれで合理的? 簡素? で良いか 
と 思いながら、母と妹と3人で 父が留守番してる実家に向かった。のであった。

こんな年齢になってさえ 親の死 というものは悲しい。(しんどい親でなければ)
けど、慰めた私に向かって母は「あんな様子を見ていたから、諦めもついたわ」と。
意識は戻らなくとも祖母が苦しんだ何日か があったから、
母は 祖母の死を納得して受け止める事ができた
とも 言える ような気がする。

「おばあちゃん やっと おじいちゃんに会えたね
長い長い人生 お疲れ様でした 
そして 本当に ありがとうございました」

4 件のコメント:

  1. お母さんもユミさんも高齢のお祖母ちゃんだし入院期間があると結構 覚悟!ってのが出来るんじゃないかなぁとか・・・

    (しんどい親でなければ)
       ↑ 私だわね アハハ

    父が突然3階で「バターーーン!」って音がして「あ!」って思って救急車呼んで(ここまですべて私は関わらず娘に任せて息子と風呂場に潜んでたw)亡くなるまでの何時間かも何の感情もなかったなぁw

    中学生のユミさんが子守りしてたって話で私なんか小2だったのに引っ越して間もないのに近くのオバサンが長男(4歳くらい)は私が銭湯に連れて行ってその下の妹(赤ん坊)はよく私がおぶったりおしめ取り換えたりしてたけどそのオバサンは何者なんだろうって! アハハ

    でもやっぱりそう言う事もあって小さい子は好きだったなぁと。。。

    でもね、自分の子にもそうだけど歌を歌ってやったり身体を動かして遊んだりは苦手で・・・ライヴ行っても拍手はするけど手も上げず身体も動かさないとんでもない女です私 アハハ

    っていつもながら自分の事ばっか書いちゃったけど どっちもお疲れ様でした (^^♪

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  2. そうだね padちゃん
    やはり、逝くまでに有余があると、回りの者の覚悟もできるね。
    父方の祖母然り 祖父然り 義母然り 
    そして この祖母然り...

    padちゃんって 本当に妙な(失礼!)経験 たくさんしてるのね。
    「近くのオバさん」って 一体 何ものだ!?
    自分の子供をそんな小さな子に預けて ってのが
    もう 本当に理解不能!
    大変だったねえ これしか言えないよ わたしゃ.... ( ̄¸ ̄;

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  3. 仕事やって、急遽お葬式に出て、ライブ3日目って
    かな~りハードスケジュールでしたね、おつかれさま。
    葬儀が遅れてうまいこと行きましたね(⌒⌒;
    padmeさんが言うように心の準備が出来るというのは、
    周囲にとってはいいのかもしれませんね。自分の婆ちゃんは
    心筋梗塞の発作で朝布団の中で冷たくなってたから、
    あれあれ?っと言う間にお葬式になってなんか実感湧かなかった
    んだよね。本人にとっては楽だったと思うけど。

    お袋のときも骨拾うとか習慣でやったけど、あんなの
    正直言ってどーでもいいやって思ってました。死んじゃえば
    結局物体になっちゃうから(すみませんね、バチ当たりで)
    生きとし生けるもの巡り巡るのだから、死んだら土葬なり
    散骨なりしてもらって、他の動植物に食われるのが自然で良い
    と自分では思ってるけど、日本の制度だとどっちも難しい
    んだよね。(海への散骨は許可があればいいのか)
    お袋のときも簡素でしたよ。本人の意思もあって
    密葬にしたので、骨拾った後は飲み食いとかしなかったし。
    それでも葬式は、長らく会ってない親族に会えたのだけは
    嬉しく思ったものでした。

    姪っ子さんの世話してたとか偉いねえ。
    最初の子のときにそういうのが役に立つあたりスゴイや。

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  4. こんばんは やすたねさん
    色々と忙しいんでないかい?
    読んでくれたら嬉しいけど、コメまで無理する必要 ないド ♪

    いや、三日間 自分は相当甘く見てたな と思ったよ ^^;
    ライヴ中の三日間は 夜の「筋肉増強運動」やる気にならんかった。

    確かに、生きてる者にとっては「逝くまでの日々」というのは
    大きいよね。
    祖母の場合だって、脳内出血してすぐに逝ってしまってたら
    母なんか号泣続きだっただろうな と思う。

    うんにゃ、実は 私もやすたねさんと似たような考え (^^;
    「死んだら 腐り行く肉だけ」って感じ。
    物体 っていうかね。
    ホント、日本の昔の慣習ってのは 理にかなってたんだな って。
    衛生学上&国土が狭いから
    「土葬」じゃ追い付かなくなったんだろうけど。

    世話になった叔父にも「こんな時にしか会えなくなっちゃって
    ホントに不義理でごめんなさい」とか言っちゃったけど
    「こういう時にしか会えなくなった」年齢 になったんだね

    あはは ^▽^
    母方の従妹同士では 私が一番上だったし
    何より 赤ちゃんが大好きだったんだねー 私は。
    どの子も 本当に可愛かったんだ。
    ンでもって、赤ちゃんだった従妹達の世話をしてきて
    実際「役立った!」のは
    抱き方 と オシメ替えだけ でした。 (^∞^;)

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